MY GARDENING LIFE 一行日記+

住宅街の小さな庭で野生の生き物と親しむホームビオトープを手作りしています。

文月朔日 父のこと

明日は戦後70年目の終戦記念日。この機に父の満州でのことを書き残しておこうと思います。私の父は満州からの引揚者です。リンク集の中に満州写真館があるのはそのためです。実家のパソコンのブラウザのスタートページが私のブログになっていて(笑)ワンクリックで満州写真館に行けるようにしてあるというわけです。(現在実家のパソコンはネットに繋がらない状態なのであまり意味はないのですが・・)

父は時折満州の話を私にしてくれました。私は、父の満州の話を聞くのは嫌いではありませんでしたが、断片的なエピソードばかりで全体像がさっぱりわかりません。父の記憶は年々あいまいになっていくので今聞いておかなければと思い、春ごろから帰省の度に父から満州の話を聞き取り、メモを作っていました。5年前なら満州の地名がポンポン出てきたのに、今は、大連と新京くらいしか出て来なくなっているので、大変でしたが、史実や他の証言などと照らし合わせ、やっとどうにか父の戦後がうっすら見えてきました。


15歳 昭和17年
尋常小学校高等科を卒業後、神戸の日本エヤーブレーキ(日本制動機)の工員として働き始める。元々機械いじりが好きで手先が器用であったため、工場の技能試験で優秀な成績をおさめ、表彰されることもあった。

18歳 20年5月 満州
昭和20年3月8日エヤーブレーキ満州進出に関する運輸通信大臣命令が発せられる。およそ150名の従業員が渡満することになった。父は、尊敬する上司が渡満すること、3月17日未明の神戸空襲で兵庫区、林田区、葺合区を中心とする神戸市の西半分が壊滅し、まともに仕事が出来なくなっていたこと、戦時下でいつ命を落とすかわからない日々、いっそ満州に行ってしまえ、という半ばやけっぱち。3つの理由で渡満を決意した。18歳昭和20年5月ごろ?に渡満。新京で現地工場の建設などに携わった。

18歳 20年8月 終戦
8月8日ソ連対日宣戦布告。ソ連が攻めてくるからと新京から吉林へ列車で疎開(泊まるところがないのでその後3週間ほど列車で過ごす)。8月15日吉林終戦を迎える。ソ連吉林へも侵攻。ソ連兵の略奪や暴行が始まる。9月初め吉林から新京(長春)へ戻る。

18歳 20年10月 新京(長春)から大連へ
新京は食糧事情が悪く食うや食わずの日も。寒さが厳しくなる頃、大連へ。
(日本エヤーブレーキの新京工場はソ連が没収する。従業員は工場の機器の輸送に協力せよ、従業員は大連工場に合流してエヤーブレーキを製作せよ、というソ連の命令に従ったわけである)

19歳 21年1月 大連
大連の霞寮?で正月を迎える。食事はコウリャンばかり。仕事はソ連に命じられる仕事をこなす。寮で麻雀に興じる日もあった。

内戦
終戦後、中国国内で、共産党(毛沢東ソ連)と国民党(蒋介石アメリカ)が対立、内戦が始まる。大連工場の仕事がなくなり事業縮小・人員整理が始まる。ブレーキの仕事もなくなり大連港で船舶機械の修理などの仕事をするようになる。

19歳 21年8月 大連
(連合国側は中国東北部の在留日本人を中国国民党が支配していた葫芦島から送還することを決定し、1946年5月7日から引き揚げが始まり、10月半ばまでに在満邦人の6割が日本へ帰還した。安東と大連の在留日本人は東北民主連軍とソ連軍が送還をおこなうこととなり、引き揚げが遅れていた。)

終戦から1年。夏が近づくと、病気に罹って亡くなる人が増えた。病気の伝染予防のためにしらみ退治するのであるが、これがなかなか大変であった。

19歳 22年1月 大連から日本へ
(大連地区からの引き上げが11月〜3月に決まる)
21年12月初旬、引き揚げ船の第一便が大連に入港。大連港からの邦人の帰還がやっと始まる。父は22年1月初旬に引き揚げ船に乗ることができた。大連港引き揚げ組の中では早い方である。佐世保に入港。上陸。 引揚援護局宿舎で引揚手続きを終えると2〜3泊の後、約2.5km 離れた南風崎駅まで歩き故郷をめざして朝8時ごろの汽車に乗った。

22年1月 帰郷
明石駅に着いたのは翌朝5時ごろ。すぐに汽船に乗り淡路島へ。岩屋から木炭バスに乗るも途中でバスが故障したため徒歩で帰郷。集落では未帰還兵・未帰還者の帰還を祈るご祈祷の真っ最中であったため、集落の人たち皆が「願いが届いた」と帰還を喜んでくれた。帰郷後まもなく20歳になった。

その後
21歳〜22歳。神戸の川崎重工に工員として勤めながら大阪の関西ラジオ技術学校で学ぶ。その後、川崎重工を辞め、グレる。パチンコ競馬にハマり放蕩生活。淡路島に連れ戻される。職を転々とする。満州からの引き揚げ者=「アカ」という偏見が根強く、職探しは厳しかった。やがて、人に使われるよりも、小さくとも一国一城の主のほうがいいと思うようになり個人事業主となった。その苦難の道のりはまたの機会に。


生きて日本に帰ることができた父は幸運だったと思います。
明日は戦争で犠牲になった全ての人に哀悼の祈りを捧げ、静かにご冥福を祈りたいと思います。